歴史を後世に繋ぐ宮大工のお仕事

奈良や京都などに近い関西圏に住む人たちは、東大寺や法隆寺、清水寺など全国的にも有名な寺社仏閣にも自然と馴染みが深いのではないでしょうか?1000年以上も前に建立された伝統建築が悠久の時を越え、今もなおその歴史を伝えながら現存することができているのは、ひとえに、時代時代の宮大工たちが、後世に伝えるべく何度も大修理を行ってきたからです。今回は、そんな宮大工たちのお仕事をご紹介したいと思います。


宮大工とは?

主に神社や仏閣などの伝統建築を手掛ける職人さんのこと。昔、神社や仏閣を「お宮さん」と呼んでいたことに由来し「宮大工」と呼ばれるようになりました。神社や仏閣は、釘や金物などに頼らず、木自体に切り込みなどを施し、はめ合わせていくことで木と木をがっしり組み上げていく「木組み工法」で建てられているので、木組みの技術を習得している大工でなければなりません。この木組みの技術を習得するのは大変難しく、一般の大工が2~3年の修行で一通りの仕事ができるようになるのに対して、宮大工は最低でも10年の修行を積まなければ一人前にはなれないと言われています。

宮大工の歴史

歴史でも習ったあの飛鳥寺、皆さんは覚えていますか?飛鳥寺は、宮大工の歴史の始まりとも言われており、朝鮮から来た二人の僧侶が建てています。世界最古の木造建築である法隆寺も聖徳太子がこの二人の僧侶から教えを受けて建立したと言われています。現在は大工という職業がありますが、昔は僧侶がお寺などを自ら建立していたのです。

歴史に名を遺す名宮大工 西岡常一氏

法隆寺の金堂・五重塔や法輪寺三重塔、薬師寺金堂など堂塔の再建・復興を手掛けた宮大工として有名な西岡常一氏。知る人ぞ知る西岡氏は、1934年から始まった「昭和の大修理」と言われる法隆寺の解体修理を手がけ、「法隆寺の鬼」と呼ばれました。

「檜だけなら千年もつのに、なぜ新築に鉄で補強をしなければいけないのか」と学者の先生方にかみついたことでも知られています。西岡氏には心情としていた法隆寺宮大工口伝というものがあり、その中でも「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」「木は生長の方位のまま使え、東西南北はその方位のままに」「堂塔の木組みは、寸法で組まず木の癖で組め」という3つの考え方が西岡建築論の根幹を成す考え方でした。

世間では、千年の檜を使えば千年持つという誤解がありますが、そうではなくて、千年の檜を木の癖なりに繋ぎあわせて、木が本来持っている木の命を組みあげていくということで千年もの時間を耐えることができると西岡氏は伝えたかったようです。また、彼は飛鳥時代の古代工法で大伽藍を造営することができる「最後の宮大工棟梁」と言われました。


宮大工は使用する木材をすべて手作業で加工します。その際に使用する道具類もすべて職人自身で作るといいます。今、日本に残っている宮大工はおよそ100人。10年ほどは寝食を共にし、師匠の下で基礎を体に叩き込むことが必要で、なり手が減ってきている現状です。歴史が流れてもずっと守り続けたいと思うもんを作っていかないかん。1000年以上も前の建物が何度も修理を重ねて今も現存してるんは、そんな宮大工の思いで繋がってるんと違うかな西岡さんの言葉には重みを感じます。

そんな木造住宅の基礎とも言える宮大工の手仕事を間近で見るなら法隆寺がおすすめです。西岡常一氏が命をかけた「昭和の大修理」の素晴らしさ、きっと見れば木造建築のすごさを実感できると思います。